Monday, March 7, 2011

体験記

私は二年前、カナダでワーキングホリデーをして暮らしていたとき、たくさんの韓国人に会いました。文化や人種が近いこともあり、すぐに仲良くなれて、親しみやすい人達だなと感じていました。今回、彼らの母国に来て共にワークキャンプを行い、私の韓国に対する親近感はさらに強くなりました。

<体験記>~異文化交流~
約六日間のプログラムで実質四日間が異文化交流に費やされました。互いの壁をなくす為のアイスブレーキングから始まり、韓国音楽を体験。ハンドマッサージを覚え、シニアセンターへ赴き、実際に患者さんへ施しました。担当のNICE山口さんのお陰で、私達の活動が地元ニュースで紹介されました。ランチ後は、韓国音楽を体験しました。今、日本で流行中のK-POPダンスを練習し、その後に韓国式太鼓のナンタを練習しました。実際にやってみると、どれも難しく、短い時間の中で覚えることに苦労しました。日本では、このような経験は自分から進んで飛び込まない限り、出来るモノではありません。ですが、一度入り込めば、どれも楽しいモノであると理解することができます。滅多に出来ない経験と、積極的に楽しむ姿勢、この二つを得ることが出来る点が、海外ワークキャンプの醍醐味だと思いました。
ワークキャンプ中の宿は大学の寮を使わせていただきました。四日目の夜は地元参加学生の自宅でホームステイをし、生の韓国家庭を体験しました。私がお世話になった家庭は、床暖房で冬でも暑い程でした。又、洗面所のシャワーは浴槽もなく、どこに水を流せばよいのか分からなくて戸惑いました。お土産に自宅で漬けた本場のキムチまで頂きました。(キムチは各家庭オリジナルがあります。キャンプリーダーのジョーは、一口食べれば、それが日本産か韓国産か区別が出来ると言っていました。)
 プログラム最終日は、グループごとに決めたルートでソウル市内を散策。途中で事前に渡されていた封筒を開き、四つのMISSIONをクリアしました。1、韓国人三人と一緒にジャンプしている写真を撮ること。2、韓国料理、トッポギを食べそこのオーナーと写真を撮ること。3、好きなハングル文字(看板等)を見つけ、写真を撮ること。4、Free Hugをすること。
 街を散策後、ユースセンターへ戻り、「JAPANESE TIME」を開き、日本の文化を紹介し、興味のあるモノを体験してもらいました。書道、着物、折紙、水風船を紹介しました。「よさこい」を日本人参加者みんなで踊り、楽しんでもらいました。私は先頭の列で2,3ヶ所大きく間違えましたが、切り替えの大切さもワークキャンプを通じて学んでいたので、それを気にすることもなかったのが大きな発見でした。成功で終わったと思います。
 最後に総括をして、プログラム終了証をもらい終わりました。
 四日間、タイトなスケジュールで忙しく動き回りましたが、その分、充実した時間を過ごせました。隣の国でたくさんの友達も出来、何よりワークキャンプを通して、自分が積極的になれたのを感じました。携わっていただいた方々、ありがとうございました。

杉浦 敏弘

分担記録

2011年 2月 24日 ソウル市内
記録者 杉浦敏弘

7:30 起床 Dormitory at Kyoung won University
8:15 朝食
9:00 移動開始→ユースセンターへ行き、韓国人学生を乗せシニアセンターへ向かう。10:00 ハンドマッサージ開始
12:00 終了 移動
12:30 公園で2回目のアイスブレイク

この日は前日に覚えたハンドマッサージの実践の日でした。
私とペアの子(韓国の子)で3人のおばあさんに手と足のマッサージを施しました。いきなり、マッサージをすると驚いてしまうので韓国語で語りかけ、少しずつゆっくりと行うように心がけました。肌で直に触れ合うと少しずつ相手の緊張が解けるのも分かります。
日本の朝鮮支配時の年代で、日本語を話せる人もたくさんいました。日本の朝鮮支配はデリケートな問題でもあります。キャンプ開始前に先生に薦められたように、歴史について勉強しておいてよかったと感じました。
ランチ前に公園でこのキャンプ2回目のアイスブレイクのようなレクを行いました。相手の名前を早く言えた方が勝ちというシンプルなゲームですが、相手の名前があいまいだと本当になかなか出てきません。特に、韓国の子の名前は覚えにくいです。名前が分らないなんてきっと失礼なことなので、このゲームを通して常日頃から意識して相手の名前を呼ぶようになりました。

Sunday, February 20, 2011

日本と韓国の歴史

韓国と日本の歴史について調べてまとめました。
日露戦争以後の関係流れで覚えられると思います。

朝鮮と日本の近代史

異文化間コミュニケーション
ゼミ4年生
杉浦 敏弘

戦後60年以上経つにも関わらず、世界には未だに反日感情を抱く方々が大勢いる。戦時中の日本軍の行動により、理不尽な強制労働、差別等を受けた人たちが端を発している。果たして日本軍は彼らに何をしたのか。日本の「ご近所関係」を近代史にのせて見ていこうと思う。
今回、韓国のワークキャンプを前に日本と韓国の歴史を復習し、異文化コミュニケーションの際の相互理解に役立てたいと思う。

日露戦争突入(1904年~)
日本の朝鮮侵略は日露戦争のころから激化する。戦争がはじまると、朝鮮政府の中立宣言は無視され、日本は朝鮮に大量の軍隊を送った。朝鮮シフを拳銃や機関銃で脅し、次のことをおしつけた。

乙巳保護条約(1905年)
l 日本軍が自由に行動できること
l 財政の顧問に日本人を置くこと
l 「統監府」を置いて日本が朝鮮の政治を取り仕切ること
l 外国との交渉も日本の外務省が行うこと
戦争のさなか日本は朝鮮の財政や外交権をうばう「乙巳保護条約」を強制的に結ばせた。これが日本の朝鮮を植民地化する第一歩となる。

義兵闘争(1905年~1914年)
乙巳条約に反対して朝鮮全土に反日義兵戦争がおこった。
「義兵」とは外国の侵略に対して、民衆が武器を手に立ち上がること。反日義兵闘争に対し、日本軍は村を焼き、一般の人々を殺害などしたりして押さえつけようと試みた。1907年からの2年間での参加義兵数114,000人中の14,500人が殺された。(日清戦争中の日本人兵士の戦死者と同じくらいの数字)

韓国『併合』(1910年)
8月22日、日韓「併合」条約が強制締結される。1875年の江華島侵略から35年続いていた日本の朝鮮侵略がついに実を結ぶ。朝鮮は「日本国」となり、韓国に関する一切の統治権を日本に譲ることとなった。
朝鮮は初めての異民族支配を受けることになった。以来36年間、日本の植民地支配の下におかれた。

三・一独立運動(1919年)
「併合」から10年目、厳しい植民地政策の中、1919年3月1日朝鮮民衆は「大韓独立万歳(マンセイ)!」を叫び起ち上がった。太極旗を手にデモ行進を行った。独立運動はまたたく間に朝鮮全土に広がったが、日本は武力で弾圧した。
以下が規模の概要

集会回数1,542回 参加者約200万人、
死亡者約7,500人、負傷者約16,000人、逮捕者約47,000人
2月にエジプトで起きたデモと比べてどうだろうか?

関東大震災災下の朝鮮人虐殺(1923年)
9月1日、関東地方南部に大地震が発生。騒乱の最中、流されたデマによって6,000を超える朝鮮の人たちが殺されるという大虐殺が起こった。余震が続く中、戒厳令・治安維持令が発動された。飢えと疲れでへとへとになった人々の恐怖をあおるようにデマが流された。デマ情報源は内務省。日本各地の長官宛てに次の文書が送られた。
「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に置いて爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地において充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし。」
 内務省からの指示を受けた自警団は通行人を検問し、朝鮮人らしいと判断した者を撲殺した。これは3.1独立運動への報復でもあると言われている。

第二次独立運動(1926年)
6月10日、朝鮮最後の国王スンジョンの国葬日に再びソウルを中心に独立運動が起きた。葬列の沿道には、30万の民衆が出てビラをまき、独立万歳を叫ぶ。

光州学生運動(1929年)
日本人学生が朝鮮人女子高生を侮辱したことがきっかけとなって、学生を中心に植民地支配に対する反日運動がおこった。

日中戦争突入(1937年) 
太平洋戦争(大東亜戦争)突入(1941年)

日本軍による朝鮮人強制連行
 1939年から敗戦までの約7年間、100万を超える朝鮮人は無理やり日本に連行され、過酷な労働条件で働かされた。長期化する日中戦争と太平洋戦争の始まりで日本人男性は徴兵のため軍に入隊していき、国内の労働力が不足した。政府は日本企業が朝鮮半島から「募集」として労働者を集めることを許可し、「募集」と銘打った「人狩り」が始まった。
 重労働と虐待で強制連行された100万人中の約64,000人が亡くなった。

徴兵令と従軍慰安婦(1944年)
朝鮮の若者たちが「日本の兵士」として南方戦線で戦い命を奪われていった。戦地の最前線の労働に15万人以上の朝鮮人が動員された。
10~20万人の従軍慰安婦が強制的に連行された。多くが朝鮮人女性だった。

従軍慰安婦について
従軍慰安婦とは兵隊相手に強制的に売春させられた女性のこと。徴用の仕方は、まず実行者が山口県から朝鮮半島に出張する。50~100人の総督府警察官が護送トラック5~10台を準備して村を包囲する。村の女性全員を道路に引っぱり出し、従軍慰安婦として使えそうな若い女性を暴力で強制的にトラックに詰め込む。1つの村から3~10人が徴用される。100~200人が集まったところで釜山から船で九州、下関に連れて行かれた。
貞操が大切にされる朝鮮の女性にとって、慰安婦にさせられることは屈辱的だった。戦後、解放された後も彼女らは故郷に帰ることがなかったと言われている。この日本の犯罪行為に対する償いはこれまで一切行われていない。

朝鮮人の解放(1945年8月15日)
終戦と同時にこれまで強制連行された朝鮮人は解放された。解放当時およそ200万人を超える朝鮮人が日本にいた。1946年の3月までに140万人余りが祖国に帰った。しかし、中には、帰国後の経済基盤を築けない不安や1950年に起こった朝鮮戦争のためなどで帰国ができなかった人もいた。そのため、未だ68万人の韓国・朝鮮人が日本に住んでいる。
 やがてアメリカとソ連の支配対立のため、朝鮮は北緯38度で南北に分割された。北をソ連が、南をアメリカが占領支配。そして朝鮮戦争が1950年に勃発し、祖国統一が遠のいてしまった。





日露戦争以前の歴史
1875年 江華島事件 
鎖国をしている韓国に無理やり開国を迫った日本。朝鮮の領海に侵入した軍艦に向かって朝鮮が発砲したことを口実に、江華島砲台を占領、民家を焼き払い、軍民35名を殺害。そして不平等な「日朝修好条規」をおしつけた。
1882年 壬午(じんご)軍乱
不平等条約に反対して、朝鮮の軍人と民衆が立ちあがり、日本公使館を攻撃した。
1884年 甲申(カプシン)政変
開国後、朝鮮人自身の手で近代化をしようとしたキム・オクキュンらがクーデターを興した。福沢諭吉らは最初支援すると見せかけて、やがて見捨てた。
1894年~1895年 甲午(カポ)農民戦争
日本による食糧や土地の買占めに苦しんだ朝鮮農民は、日本の侵略とそれを許した朝鮮政府に反対して、チョン・ボンジュンを先頭に立ちあがる。
1894年 日清戦争突入
1895年 閔妃殺害
ロシアと結び付き、日本の介入を食い止めようとした閔妃を、日本公使三浦らが殺害。このことが朝鮮民衆の怒りを買い、各地で義兵の戦いがおこった。

Wednesday, February 9, 2011

韓国の食べ物

韓国の屋台やスーパー、空港で買えるスイーツを調べました。
韓国で見つけたら食べてみたいですね☺
(データは500回までダウンロードできます。)

http://firestorage.jp/download/73b8000aa93b20f5fc1eb19152a3a52acd7d3a2a

Tuesday, February 1, 2011

現代の韓国

こんにちは☆
プレキャンプ用に作成した『現代の韓国』についての資料です。どうぞご覧ください^^
※画像は表示されないです。

https://mail.google.com/a/st.nufs.ac.jp/?ui=2&ik=7b8f73b86c&view=att&th=12da7dfcf337443e&attid=0.1&disp=vah&realattid=f_gj6voia60&zw

Tuesday, January 25, 2011

はじめに

韓国グルキャンの参加者の皆さんへ

皆さんが韓国について調べたことを分かち合うためのブログを立ち上げました。
言葉や歴史、食べ物、マナー等、調べたことをどんどんアップして下さい。写真を入れたり、リンクをはると面白いかも。

皆が書き込みができるように、パソコンのアドレスに招待状を送ります。